さえずるキウイズム

一児の父が大人になるため考えたことや子育て、健康についてピーピーさえずっています。

何者でもない自分に会いに

こんにちは。

ウイズムです。

 

最近ふと思います。

「自分は何者か?」

ということを考える時間がめっきり減ったなと。

 

小学生のころはそれこそ毎日のように

「自分はどこから来たんだろう」

「自分はなぜ自分なのだろう」

みたいなことを考えていて、挙げ句の果てには銭湯の鏡の前で泣き出したこともあるくらいです。

 

今思えばぜいたくだったそんな時間が減ったのはきっと役割が増えたからなのだと思います。

 

人には社会的役割というものがあり、自分の例で言うと「弟」という役割からはじまり「兄」になりました。様々な役割を経て、今では「夫」「一家の大黒柱」「管理職」といったところでしょうか。

 

役割というのは力を与えてくれます。それを存在意義と呼んだり、使命と呼んだり、アイデンティティと呼んだりします。呼び方は各人のセンスに任されていますが。

 

逆に役割がプレッシャーとなって襲いかかってくる例もあります。とくにわかりやすいのは「お母さん」という役割ではないでしょうか。子育てには自分を殺して役割を演じるくらいのエネルギーが必要となります。

 

一長一短ではありますが、役割があるというのは基本的には安心です。少なくともその時間は何者かになれるから。

さいころ不安だったのはきっと役割が欲しかったからなのだと今となっては理解することができます。

 

役割を脱ぎ捨てて 

役割がその人を形取る重要なものである一方で、そこから解放されることも重要です。

 

なんの役割も演じる必要がない、何者にならなくても良い時間。そんな時間を人はどこかで求めています。

 

「仕事なんだからちゃんとやれ」

「結婚してるんだから、しっかりしないと」

「人の親として恥ずかしくないように」

 

自分で思う分にはいいのですが、人から言われるとなんだかモヤモヤしてしまいませんか?

 

役割に疲れた時は一度脱ぎ捨ててみるのもいいかもしれません。

 

「無駄」と「孤独」

役割を投げ捨てるためのヒントとなるのは「無駄」と「孤独」です。

 

まずは「無駄」について。

人に言われるまでもなく、やりたいこと。人に辞めろと言われても、やってしまうこと。そんなことが見つけられると幸せになれる気がします。

「無駄」を楽しむ心は「やるべき」からの解放、つまり役割からの解放です。

 

そしてもう一つは「孤独」です。

人は1人では生きていけませんが、1人の時間もないと生きていけません。

人を役割に縛りつけるのも、また人なのです。

周りの声に惑わされることのない「孤独」な時間を過ごせるようになると自分の声を聞こえてくるようになります。

 

何者でもない自分に会いに

社会的役割はその人にとって必要不可欠なものでありますが、それが全てになってしまうのが不幸のはじまりではないでしょうか。

 

何者かでありながらも、何者でもいたくない。その矛盾を認めることができればもう少しラクに生きていけるような気がします。

 

「無駄」と「孤独」をお供に何者でもない自分に会いに出かけましょう。

 

本日はこれにて。

お付き合い頂きありがとうございました。