さえずるキウイズム

一児の父が大人になるため考えたことや子育て、健康についてピーピーさえずっています。

「役割」ではなく「わたし」の名を呼んで

名前で呼ばれると「わたし」として認識されているようで嬉しくなります。

 

下の名前で呼ばれるのはなおさらです。社会人になってからはそんな機会も減りましたが、個人的にはもっと下の名前で呼ばれたい派の私です。

 

うちの家庭ではお互いに名前で呼び合うようにしています。

こどもに話すときも「お父さん」「お母さん」ではなく、「○○君」「○○ちゃん」といった具合に伝えています。(まだお話ができないので、どう受け取っているかはわかりませんが。。)

 

ついつい「お母さん」や「ママ」と呼んでしまう時もあり、正直そっちの方がラクです。しかし「役割」で相手のことを見ているような感じがしてあまり好きな呼び方ではありません。

 

「ママ」とか「パパ」という「役割」は「わたし」の中のほんの一部にしか過ぎないのですから。

 

「役割」が重荷になるとき

例えば私は「父親」という「役割」を持っています。もちろん自分自身で選んだものであり、それを果たすことができるというのは光栄なことです。「役割」が力を貸してくれて、人間として成長させてくれるケースもたくさんありました。

 

一方で「父親」としてではなく「わたし」として振る舞いたい気持ちを否定できません。ただの「父親」として見られたくないと思う瞬間はやってきますし、子どもを放ったらかして好きなことに没頭できたらなと妄想することもあります。

 

「父親なんだからしっかりしなくては」

自分でそう思う分にはいいのですが、同じようなことを上司や友人から言われると「うるせーな」とか思ってしまいます。(ごめんね)

 

このように「役割」を重荷に感じるということを、大なり小なり誰しもが経験しているのではないでしょうか?

 

「わたし」の中に「役割」があるだけ

編集者/ライターの小沢あやさんが書いたコラムにこんな一文がありました。

p-dress.jp

出産後、知人や職場の同僚に「すっかりママだね」と言われることがあった。
紛れもなく、わたしはママである。
それでも、今まで「ママ」として扱われなかった場で、いきなり「ママ」の部分ばかりをフィーチャーされると戸惑う。もともと、包容力ある世話焼きキャラでもなかったのに。

 

なんだろう、この違和感は。
「わたし」の中に「妻」や「ママ」がいるのは確かなのだけれど。

 

共感だらけのコラムなのですが、とくに最後の表現がしっくりきました。

「妻」や「ママ」はあくまで「わたし」の中にあるものであって、ほんの一部なのです。そして、それは「ママ」に限った話ではありません。

 

「お兄ちゃんなんだから」

「社会人でしょ」

「父親の自覚がないのか」

 

こういった呪いの言葉に疲れてしまうこともあるでしょう。しかし何度も言うように「役割」は「わたし」の中のほんの一部です。それが重いと感じた時は思い切って一旦忘れてみるのもアリだと思います。

 

大切なのは「わたし」という全体です。決して「役割」の中に「わたし」がいるわけではない。そのことを忘れず、ちょっと力を借りるぐらいの気持ちで「役割」とは付き合っていくのが疲れなくてすみそうです。

 

名前で呼ぶという行為がそんなことを考える良いきっかけになりました。

 

本日はこれにて。

お付き合いいただきありがとうございました。